南越国史

        南越国史
 
 

   紀元前219年、秦国の武将だった趙佗は王様の命を受けて、嶺南に遠征した。五年後、南越を治め、桂林郡、南海郡と象郡を設置し、正式に中国の南の方を秦国の領域に入れた。戦功で趙佗は南海君郡竜川県の県令についた。
   秦の残虐な統治で、庶民の反抗が激しくなった。秦始王が亡くなったばかりに、陳勝、呉広の一揆とはじめ、中原は戦乱に落としいれた。趙佗は戦争に巻き込まないために関を閉め、道路を無くした。紀元前203年に南越国を建て、自ら「南越武王」と称し、嶺南を管理した。在位期間67年中、民族の団結と社会経済の発展によい政策を行ったから、この間嶺南地域は穏やかに発展することができた。
   紀元前137年、趙佗がゆっくりと彼の百歳の人生を歩き終わる間に、息子はもう亡くなり,王位は孫の趙眜が接することになった。趙眜は自ら「文帝」と称し、在位期間16年ぐらい、ちょうど漢朝には漢武帝の在位時期だった。漢朝からの強い圧力で、太子の嬰斉を人質として漢に派遣した。紀元前122年、趙眜40歳ばかりに没し、趙嬰斉が即位し、南越明王と称した。趙嬰斉は即位後、漢朝に対してのまごころを表すため、漢武帝に漢民族の女性と生んだ次男趙興を太子にすることを上書きした。実、その決定は嬰斉の没した後、南越国の宮廷内に起こった災いの元になった。長男趙建徳、丞相呂嘉との矛盾で南越国内部に政変が起き、最後、趙興は殺され趙建徳が即位した。漢武帝は内乱の時期を利用して、楼船将軍に十万軍隊を率いさせ、南越を討伐した。南越国の都番禺が陥落し、城は一面の火の海と化した。呂嘉、趙建徳は殺され、93年を経った南越国は滅亡した。百年近いの時間に、嶺南地域は政治、経済、文化などが全面的に発展した。南越王墓、南越王宮廷の遺跡と水門は南越国の物資文化の発展の重要な目撃証言である。




 
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